【市民憲章の社会的役割】

 最近、全国各地でまちづくりに関わっておられる方々は勿論、それ以外の方々の間でも「日本の市民憲章」に対する関心が急速に高まってきているように思われます。
 また、拙著『日本の市民憲章』(詩歌文学刊行会、2002.6)を読んで戴いた方々や、この『市民憲章情報サイト』(2003.1.15〜)を見て戴いた方々から、例えば、「市民憲章はこれまで思っていたよりもはるかに奥が深い」・「市民憲章には日本の文化や日本人の国民性が象徴的に示されている」・「市民憲章は日本らしさを考えさせてくれる」・「法律や制度によるまちづくりには限界があることがわかった」・「市民憲章はもっと現実のまちづくりに生かされるべきだ」・「もう少し市民憲章の認知度を上げたい」などといった感想や御意見を数多くお聞かせ戴いております。
 そこで、「日本の市民憲章」がこれからの日本の社会において果たすべき役割を、「日本人の国民性を自覚させる」「和語の意義を再認識させる」「市民の参加意欲を喚起する」「市民の地域愛を涵養する」「総合計画の内容を監査する」「法律の限界を超克する」などの観点から明確に示しておくことにしたいと思います。

●市民憲章は日本人の国民性を自覚させる
 1980年頃から国際化・グローバル化・世界標準・世界市場といった言葉が特に強く叫ばれるようになり、何事によらず欧米の事例を「先進事例」として無条件に取り込むことが正しい選択であるかのような風潮が強まっているように思われます。
 しかし、言うまでもなく、どのように優れた制度やシステムであってもその国の長い歴史や国民性の上に成り立っている訳ですから、それらの結果だけを単純に取り込んだからといって日本で好ましい効果を発揮するとは限りません。
 寧ろ、有害な帰化植物が昔から有る日本の美しい草花を駆逐することがあるように、欧米の制度やシステムが日本人の大切にしてきた精神風土をずたずたに引き裂くことすらあり得ます。  例えば、人前で端ないことを平気でやるような恥知らずな日本人は何時から増えたのでしょうか。他人の迷惑も顧みず自分の言い分だけを声高に主張するような無神経な日本人は何時から増えたのでしょうか。他人から借りた金や家を返さず理屈をこねて誤魔化そうとするような厚かましい日本人は何時から増えたのでしょうか。
 やはり、日本人は一度「欧米には欧米に似つかわしい思想や方法があり、日本には日本に相応しい思想や方法がある」という素朴な真理に立ち返って、実現すべき制度やシステムを根本的に見直す必要があるように思われます。
 そして、その上で、「日本の主体性を保ちつつ欧米とうまく付き合っていく方策」・「欧米の成果を日本に合った形に変えて活用する方策」・「日本人が日本人らしく気持ちよく生活する方策」などを、きちんと分けて模索すべきではないでしょうか。
 特に、近年、ストレスが数多くの日本人の深刻な疾病の引き金となっていることを考えるにつけ、日本人が日本人らしく生きる基盤を確認することは喫緊の課題であるように思われます。
 このように考えた場合、日本人の国民性を象徴する形式や内容を持っているという点において、日本の市民憲章には大きな存在意義があることに思い至ります。
 日本の市民憲章は、欧米の憲章のような「細々としたことを体系的にまとめた契約書的なもの」とは異なり、「いくつかに絞られた実現すべき良いことを心を込めて祈る宣誓文的なもの」です。
 この点に限ってみても、日本の市民憲章は日本人に自らの国民性を思い起こさせてくれるものであると思われます。

●市民憲章は和語の意義を再認識させる
 日本に限らず世界で国際化が進み「バイリンガル」更には「トリリンガル」で活躍する人が非常に多くなってきましたが、それでも母国語の重要性は変わりません。
 例えば、日常生活・ビジネス・学術研究などの限られた場においてはその重要性がさほど意識されませんが、人間や社会に関わるものごとを深く突き詰めて考えたり心の底から湧き上がる思いや願いを的確に表現したりする場合には、やはり母国語に縋らざるを得ないように思われます。
 勿論、我々日本人は母国語としての日本語を当たり前のように用いていますが、改めて日本語の成り立ちを考えてみると、そこには当たり前でないことが多々あります。
 特に重要なことは、「無文字の時代が長かった」ことと「3つの語種がある」ことです。
 文献資料の無い古い時代の日本語については仮説や推論の域を出ないことが多いため、国語学の世界では慎重な態度がとられてきましたが、少なくとも縄文時代の前から縄文語・アイヌ語・琉球語などと共通部分を持つ「祖語群」が存在したことはほぼ間違いありません。
 そして、それらを基に形成された和語(大和言葉、pure Japanese)は、漢字が入ってくるまでの数千年の間「話し言葉」としてのみ用いられ続け、「真名」(漢字)とそれに対する「仮名」(万葉仮名・片仮名・平仮名)が「書き言葉」として用いられ始めてからは、まだ千数百年しか経っていません。
 この間の事情は、日本の文明や文化の基層部分は和語による「耳コミュニケーション」によって形成されたことを示しています。
 また、現在の日本語には和語・漢語・外来語という3つの語種がありますが、これらは出自・歴史・用法・語感などが大きく異なるため、我々はそれらを巧みに使い分けています。
 例えば、流行歌の歌詞や特急列車の愛称などには圧倒的に多くの和語が用いられ、法律の条文や学術論文などには相当な割合で漢語が用いられています。
 ここで重要なことは、日本人の真の母国語とも言うべき和語には単なる情報伝達機能を超えた力があるということです。
 特に、我々日本人にとって「イメージを呼び起こす力」「心を開かせる力」とは、21世紀に入った現在でもなお大きな意味を持っています。
 このように見てくると、日本人にとって「和語が耳から入ってくる」という状況は、様々な局面で決定的な役割を果たす可能性があることが了解されます。
 これまで、このような観点から和語の意義が評価されることはありませんでしたが、和語が多用されている市民憲章の文言は、近年「声に出して読む美しい日本語」の例としても見直されています。
 小中学生でも理解できる程度の知的水準で書かれ、音読した時心地よく耳に入ってくるという市民憲章は、まちづくりにおいても多くの市民の心を決定付ける力を持っていると考えられます。

●市民憲章は市民の参加意欲を喚起する
 近年、まちづくりをはじめとする地域行政において、一般市民が「パブリックコメント」・「懇談会」・「委員会」・「ワークショップ」等に、いろいろな形で参加するようになりました。
 このような「市民参加」(citizen participation)は、施策実施の前提として市民の「合意形成」が重視されたものであり、「パブリック・インボルブメント」(public involvement、市民参画)・「パブリック・コミュニケーション」(public communication、公共情報交流)などといった考え方も、民主主義における「決定」の手続が強く意識されたものと考えられます。
 しかし、これらの考え方に基づく一般市民の行動は、どこの自治体においても以下のいくつかの事情により、必ずしも活発とは言い難いのが実情です。
    (1).行動に必要な時間のとれる人が限られている。(主婦・老人・自営業者・学生、など)
    (2).専門的な知識や情報を理解することが容易ではない。(都市計画・環境・法律・財務、など)
    (3).自分の利害に関係しないことには関心がない。(再開発・計画道路・用途指定、など)
    (4).政治的に利用されるおそれがあるため積極的に行動できない。(保守系・革新系、など)
    (5).善意による行動を客観的に評価する基盤が無い。(独善・個人的趣味・傍迷惑、など)
 従って、多くの一般の市民が地域行政に進んで参加するためには、大なり小なりこれらの事情を解決しなければならないことになりますが、これまでは全てにわたって有効な「切り札」が無いとされてきました。
 そこで、再評価されつつあるのが市民憲章です。
 市民憲章は、市民に過大な負担を要求せず、誰からも親しみやすく理解され、利害や主張を超えた共感を生み出すという意味において、全ての市民の自然な参加意欲を喚起するツールとして極めて大きな可能性を持っていると考えられます。

●市民憲章は市民の地域愛を涵養する
 21世紀の日本を語る場合の基本認識として「国際化」・「高度情報化」・「少子高齢化」といった3つの社会変化は半ば常識になっていますが、実はこれらの他にもう一つ重要な変化があります。
 それは「高学歴化」ですが、これまで不思議なほど重要視されてきませんでした。
 しかし、周知の如く戦後の日本においては、義務教育ではない高等学校への進学率が90パーセントを超え、現在では大学・短大・高専・専門学校等への進学率が50%を超えています。
 このような社会は日本の歴史においても諸外国においても例が無く、現在の日本は文字通り空前絶後の高学歴社会であると言っても過言ではありません。
 この異様とも思われる社会状況は、確かに国民の平均的な理解能力や判断能力を飛躍的に高めてきたと思われますが、反面、足が地に付いた地味な努力を過小評価する風潮を生むことになり、例えば産業構造や職業観を歪めて所謂バブル経済の遠因になっていたとも考えられます。
 また、「原則として特別な人間の存在を認めない」という民主主義的平等思想が浸透したこともあり、多くの日本人にとって知的権威は急激に説得力や影響力を失いつつあります。
 従って、まちづくりについても「高度のレベルにおける一家言」を持つ一般市民が増え、その結果として、多くの市民が抵抗無く受け入れ得る思想や運動は限られたものにならざるを得ないことになっています。つまり、下世話な言い方をすれば、「誰がもっともそうなことや偉そうなことを言って旗を振っても、それについていく人が極めて少ない状況になっている」ということです。
 このような社会状況の中で自分の住むまちへの愛情が芽生えるとしたら、それは、恐らく強制や義務や利害に関わる知的判断によるのではなく、例えば「繰り返し声に出す」・「心を込めて祈る」・「美しいものを思い描く」・「親しい人と共に作業する」などといった理屈を超えた行為が契機になると考えられます。
 かつては「盆踊り」・「地域の祭り」・「結」・「講」・「道普請」などが地域愛を涵養する上において重要な役割を担っていましたが、現在の日本の多くの市においては、そのような役割を果たし得るものが市民憲章以外には見当たらなくなってきています。
 蓋し、日本の市民憲章には、自らが住んだり仕事をしたりするまちに対する市民の愛情を涵養するという大きな意義があります。

●市民憲章は総合計画の内容を監査する
 自治体のまちづくりに関して実質的な最上位にある計画は「総合計画」と呼ばれ、原則として「基本構想」・「基本計画」・「実施計画」の3つの段階に分かれています。
 そして、更に「総合計画」の趣旨に基づいて各種の「マスタープラン」が策定されますが、まちづくりと特に深い関係があるものは「都市マスタープラン」であり、普通は「基本方針」・「将来像」・「全体構想」・「地区別構想」などで構成されています。
 1992年の都市計画法の改正によって住民の意思がまちづくりに反映されるようになったため、多くの市においては、広く市民の声を聴取する機会を設けるだけでなく、総合計画やマスタープランを策定する際の「審議会」・「委員会」・「懇談会」などの構成員に一般市民を加えるようになりましたが、ここで3つ問題があります。
 第一は、一般市民が行政の専門家や学識経験者といった「プロ」と同じテーブルに着いてもなかなか具体的な意味のある議論に参加し難いということです。このような事情は、計画の策定に要求される専門性のレベルが高くなればなる程、市民の参加する意義が怪しくなることを意味しています。
 第二は、総合計画は通常25〜30年の想定期間を持つため、期間内の実現を前提とした現実的な施策が示されることになり、市民の求める理想が確認され難いということです。このような事情は、総合計画の妥当性を長期的に評価する基盤が無いと方針や施策の全てが無条件に是認されてしまうことを意味しています。
 第三は、民主的な手続きによって策定され決定された総合計画は、一旦決定されてしまうと、その後で明らかになった問題に対して市民の意思を反映させることが難しいということです。また、多くの場合、市民の目が計画の実施状況に注がれることも少なくなりがちです。このような事情は、市民の関心が定常的に総合計画に向けられるべき機会を設ける必要があることを意味しています。
 市民憲章は、これらの3つの問題に対して具体的な解決の糸口を与えてくれると考えられます。
 何故なら、市民憲章は、誰でも理解できる価値基準が簡単明瞭な文言で表現され、想定期間も無く半永久的な理想が示されますし、その推進活動を定常化することによって問題意識を長期的に持続することができるからです。
 特に近年は、行政が「費用対効果」・「単年度実績」・「成果目標」・「達成度」などで評価され、ともすれば評価の基準が精神性の希薄なものになりがちなので、市民憲章の存在意義はますます大きなものになりつつあると思われます。

●市民憲章は法律の限界を超克する
 古今東西を問わず世の中が混乱している時は、悪事を抑え社会正義を実現するという意味において、法律が果たすべき社会的役割は決して小さくありません。
 しかし、世の中が落ち着いてきた時、法律によって世の中を良くできるかというと、そこには明らかな限界のあることが分かります。
 すなわち、法律は本来「人間が為す可能性のある悪いこと」を前提に定められており、多くの場合は国家権力や刑罰規定によって個々人の自発的行為とは言い難い短期的な従順性が求められますが、このことは、法律が「一部の不心得な人間の悪事によって世の中が悪くなるのを抑止する」ことはできても「大多数の人間の善意や努力によって世の中が良くなるのを促進する」ことはできないことを意味しています。
 実際、世の中の大半の人間が法律を遵守したとしても、世の中は悪くはならないものの決して良くなるとは言えません。何故ならば、もともと人間が悪いことをしないことは当たり前のことであり、それだけで世の中が良くなる道理がないからです。
 このような事情は、世の中の人間が何もしなくなった場合のことを仮想してみれば直ちに了解することができます。言うまでもなく「誰もが悪いことをしない」ような世の中は法律的に見れば好ましい世の中ということになりますが、「誰もが良いことをしない」ような世の中は決して好ましい世の中ではありません。
 このことは、更に、以下の重大な問題を含んでいます。
 すなわち、法治主義が近代国家の基本条件であるという認識は未だに広く支持されているように思われますが、ここで注意しなければならないのは、法律はあくまでも好ましい世の中を実現するための必要条件に過ぎず、法治主義を過大評価すると個々人の行動意欲や社会の活気がどんどん低下していくということです。
 従って、法治主義を標榜する現代国家においては、社会が健全に発展するための条件として、法律の限界を超克すべき社会システムが求められることになりますが、大半の先進諸国では、そのような社会システムの役割を宗教が担っています。
 しかし、今日の日本においては、例えば「善行を重ねて極楽往生しよう」などと本気で励む人は極めて少ないのが実情であり、千五百年近い歴史を持ち国教とも言うべき仏教ですらそのような役割を果たしているとは言えません。
 このように考えた場合、21世紀の日本の社会にとって、法律の限界を超克し「多くの市民の善行意欲を無理なく喚起する基盤」が不可欠であることは明らかです。
 そして、このような基盤の内で最も分かり易く親しみ易い具体例が市民憲章であると考えられます。

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