【日本の市民憲章の本質】
●はじめに
日本の市民憲章は、昭和31年(1956)5月3日に日本最初の定型的市民憲章である「京都市市民憲章」が制定されてから既に半世紀が経過し、全国の都市の約9割に制定されてきましたが、残念ながら、未だにその意義や役割が多くの人に十分に理解されているとは言い難い状況にあると思われます。
また、市民憲章の推進活動も全国各地で堅実に継続されてきてはいますが、一部の都市を除いて、必ずしも活発に展開されているとは言い難い状況です。
市民憲章とその推進活動が現在このように不本意な状況にある理由は、一言で言えば「日本の市民憲章の本質」が理解されていないためということになりますが、特に「日本の市民憲章の特徴」・「市民憲章が提起している問題」・「市民憲章が今後担うべき役割」の3点については、声を大にして再確認しておきたいと思います。
●日本の市民憲章の特徴
日本の市民憲章は、日本古来の「のり」の伝統を受け継ぎ、本来は、誓約の前提として暗誦されるべき言明であって、文書としての記録性や実効性を重視しある種の契約書とも言うべき欧米の「チャーター」(charter)とは、制定主旨も内容も大きく異なるものです。
特にその本文は、制定主旨に基づく必然の結果として、「表現が簡潔である」・「目標が肯定的である」・「和語が多用されている」という3つの大きな特徴を持っています。
第一に「表現が簡潔である」ことですが、このことによって、日本の市民憲章は、老若男女を問わず誰にとっても、分かり易く覚えやすいものになっています。
また、これは同時に「抽象的な文言が用いられる」ことを意味しますが、このことによって、市民一人一人の自由で多様な想像や解釈が可能になり、実践活動における市民の個性が担保されることになります。
この点は、法律や条例が、全ての市民に対して同一の解釈を要求しているため、必然的に構成や文言が厳格で複雑なものにならざるを得ないこととは対照的です。
第二に「目標が肯定的である」ことですが、全国の市民憲章の本文で「〜しないようにしましょう」という否定的な目標表現がなされている例は、無いに等しいほど僅かであり、殆ど全ての本文は「〜しましょう」という肯定的な目標表現がなされています。
このことは、行動科学的観点から見ても、極めて重要な意味を持っています。
すなわち、人間は「やってはならぬこと」を強く意識させられれると、「やるべきこと」に対する意識が薄くなり、更には、行動意欲自体が衰えるということです。
例えば、中学校や高等学校の「校則」には、生徒が実質的に「してはならないこと」を数多く定めている例が少なくありませんが、そのような校則をいくら強化しても、徒に大人しい生徒が増えるばかりで、良いことを積極的にやろうとする元気な生徒が増えないことは、全国各地の事実が証明しています。
従って、市民憲章の本文が市民の意識に刻みつけられることによって、市民の意識が自己解放的で自主的な行動に向かい、市民の参加意欲や行動意欲が喚起されると思われます。
第三に「和語が多用されている」ことですが、日本人にとって「和語」(大和言葉)は、歴史的あるいは国語学的に特別な意味を持っているだけでなく、現代の日常生活においても極めて大きな意味を持っています。
勿論、「温かい感じがする」・「親しみやすい」・「心がこもっている」・・・といった和語の情緒的な評価も重要ですが、決して見逃してはならないのは、多くの和語の「同音同義性」です。
例えば、「むね」という和語には「胸」・「旨」・「宗」・「棟」などという漢字が当てられ、それぞれ意味は異なりますが、大本に「最も大切な部分」という共通の概念を含んでいますから、「むね」という言葉が耳から入ってきた場合、そのまま安心して心の奥に受け入れることができます。
これに対して、漢語は、アクセントによる区別があるとしても、同音異義語に意味的な繋がりが無いため、「貴社の記者が汽車で帰社した」などといった例が示す通り、前後の状況を確認した上で正しい意味を確定しなければなりません。
また、漢字は表意文字ですから、知らない漢字については、音から意味を類推することが全くできないことになります。
このような事情からも分かるように、漢語が多用された文章は、目で読むときは効率的で理解しやすいのですが、耳から入ってくるときは、かえって分かり辛いのです。
従って、和語が多用されている市民憲章の本文は、市民の誰もに文言の容易な了解を保証し、それを受け入れる市民の心を気持ちの良いものにすると考えられます。
そして、市民の誰もが、市民憲章の言葉を唱えることにより、その時々に、自分にできるよいことを、自分なりのやりかたで、気持ちよく実行することができると思われます。
●市民憲章が提起している問題
特に重要な問題は2つあります。
一つは、法律が増え続ける社会は一度真剣に見直す必要があるのではないかということです。
法律は、もともと性悪説に根ざした必要悪、すなわち、軍隊や警察などと同様に、本当は人間社会に無いことが最も良いものですから、それが増えれば増えるほど、世の中には人間不信の風潮が満ち、行動を抑止する規定によって明るさや活気が無くなっていきます。
また、当然のことながら、法律が増えれば、それを実施するための公務が増えることになり、常識的には、公務員の仕事も公務員の数も増えざるを得ないことになります。
このような法律が現在の日本には既に1800以上もあり、年々増え続けて、数年後には2000を超えようとしていますが、本当にこのような状況を放置しておいていいのでしょうか。
これに対して、市民憲章は、性善説に根ざし、人間の良心や善意を信じた自主的な行動を前提としているという意味において、法律とは対照的な存在です。
すなわち、圧倒的多数を占めているまともな一般市民にとって、市民憲章は「あって欲しいもの」であり、法律は「あって欲しくないもの」であると言うことができます。
従って、市民の間で市民憲章の本質が理解されればされる程、法律というものに対する疑問が鮮明になると思われます。
今一つは、真の日本らしさは何を基盤に検討されるべきかということです。
第二次世界大戦の後、国際化が急速に進み、現在では、市場経済や科学技術に止まらず文化や生活についてもグローバル化することが当然の前提になっていると言っても過言ではありません。
しかし、このような潮流の中で、多くの日本人は「国際人としての拠り所」に対する不安や「自分らしくない生き方」に起因するストレスを抱えているように思われます。
これらの不安やストレスは、突き詰めれば、「日本らしさ」がはっきりしないために起きているということになると考えられますが、その「日本らしさ」はどうすればはっきりするのでしょうか。
そこで、改めて、国民性の大本を形成するものは何かを考えると、ダンテがイタリア人の誇りを懸け『神曲』をイタリア方言のトスカナ語で書いた例を見ても、それは言葉であることが分かります。
すなわち、日本人が自らの国民性を足下から見直すとしたら、まず最初に見直されるべきものは日本語であると考えられます。
実際、日本の社会では、グローバル化が進行するのと歩調を合わせるかのように「日本語ブーム」が広がってきましたが、そこで最も重要なことは、真の日本語は漢語でも外来語でもなく和語(大和言葉)であるということです。
このような事情により、現在の日本においては、和語に強い関心の持つ機会が切実に希求されていると思われます。
従って、市民憲章の本文に和語が多用されているという事実は、その制定過程においても実践過程においても、市民の和語に対する関心を飛躍的に高めるという意味において、極めて重要な意義を持つと考えられます。
●市民憲章が今後担うべき役割
現在の日本の社会には様々な情報が洪水のように溢れていますが、そのような社会で求められているものは、難しい理論や複雑な分析ではなく、単純で明快な行動原理であると思われます。
そこで、市民参加を前提としたまちづくりにおいて、市民憲章が今後担うべき役割を考えた場合、単純で明快な行動原理として特に重要なものが3つあると思われます。
第一は「明るいまちを目指す」ということですが、ここで最も大切なことは、「世の中を明るくするもの」と「世の中を暗くするもの」とをしっかり見分けることです。
そして、一人一人の市民が努力を積み重ねることにより、「世の中を明るくするもの」は地道に育て、「世の中を暗くするもの」は少しでも無くしていくことです。
例えば、市民の多くが「あって欲しい」と思っているものはまちを明るくし、「あって欲しくない」と思っているものはまちを暗くします。
また、ルネッサンスの初期を持ち出すまでもなく、人間を解き放ち自主性に期待するものは世の中を明るくし、人間を抑えつけ強制するものは世の中を暗くします。
従って、市民憲章のように「夢かもしれないが、そうあって欲しいもの」が増えれば、人間には頑張って生きようという力が湧き、社会は明るく活気に満ちたものになりますが、法律や条例のように「あって欲しくはないが、その存在を認めざるを得ないもの」が増えれば、人間は結果論的で無気力になり、社会は暗く息苦しいものになると考えられます。
蓋し、「明るいまちを目指す」ということは、市民憲章の精神や活動を広げ、少しでも法律や条例が無くても済むようにしていくことに他ならないと思われます。
第二は「良いと思うことをする」ということです。
今から十年ちょっと前に『脳内革命』(春山茂雄著)という本が、公称600万部という空前絶後の大ベストセラーになりましたが、この本は、「良いと思うこと」をするときは健康で幸せになり、「悪いと思うこと」をするときは不健康で不幸せになるという単純明快な主張を、医学的な装いで展開したものに他なりません。
ここで重要なことは、この本の学問的な評価は別として、このような主張が圧倒的多数の日本人に支持されたという事実ですが、恐らく現在においても、このような主張は圧倒的多数の日本人に支持されるであろうと思われます。
何故ならば、それは日本人にとって「真理」であるからです。
このような事情は、まちづくりについても社会生活についても当てはまると考えられます。
すなわち、一人一人の市民が、自分のまちや隣人のために「その時々に自分ができる良いこと」を自分の意思と力で実行することは、それがどんなに小さなことであっても、その人の健康と幸せに寄与するということです。
このような意味において、市民憲章の推進活動は市民の健康と幸せに寄与すると考えられます。
第三は「心を合わせる」ということです。
日本人が社会生活を通して心の底から求めてきたものは、昔も今も、例えば「心遣いの温かさ」・「手を取り合う喜び」・「共に生きる幸せ」といった人間関係上の価値であると思われます。
そのような価値観は、聖徳太子の時代には「和」という言葉で表現され、現代においては「協調性」・「コミュニケーション」・「共生」などという言葉で表現されているように思われますが、ここで重要なことは、本来の「日本人らしさ」の根底には、相手の気持ちや立場を慮るという意味も含め、「心を合わせる」という大前提があるということです。
近代から現代にかけての日本の社会は、よそよそしさを肯定する西欧流の個人主義や私権を過大評価するアメリカ流の功利主義に毒され、守り通すべき「日本らしさ」を放棄してしまったことが少なくありませんが、その結果として、身近な人間関係がぎすぎすし社会全体がとげとげしくなってきたことは、現在、多くの日本人が実感していることであると思われます。
このような事情を踏まえ、改めて「日本らしいまちづくり」ということを考えると、「心を合わせる」ということの大切さが鮮明に浮かび上がってきます。
近年、全国各地で、まちづくりに関する様々なNPO活動が進められていますが、試行錯誤の段階にあるものや位置付けが今一つ明らかでないものも少なくありません。
また、順調に活動しているものについても、単独の活動に限界を感じ、他の団体や組織との連携を求めているものが増えつつあります。
このような状況において現実的に重要なことは、まず「志を同じくする」人達がお互いの存在を認め合い、多くの市民が「心を合わせる」ことであると考えられます。
そして、そのような活動の橋渡し役として、市民憲章とその推進活動は、他に類例のない適性を持っていると思われます。
何故ならば、市民憲章は、まちづくりや市民の生活に関する総合的な視点に立って、様々な具体的行動を喚起することを想定し、抽象性の高い文言を用いているからです。
従って、今後の日本各地においては、市民憲章の推進活動組織が、まちづくりに関する各種の活動をまとめる連合組織の中心的な役割を果たしていくものと思われます。
●おわりに
以上に示した「市民憲章の本質」は、日本の市民憲章の形式や内容が何故日本の社会に広く定着したのか、あるいは、欧米型の「都市憲章」は何故日本に全く制定事例がないのかという疑問に対する明快な答えを示しているものと考えられます。
すなわち、日本の市民憲章は、日本の「文化的DNA」とでも呼ぶべき伝統を受け継ぎ、日本人の精神の最も深い部分に基盤を持っているため、現代の日本人が心の底から賛同し得る数少ないものの一つであり、だからこそ数多くの日本人に自然に受け入れられてきたということです。
この一文が、市民憲章の本当の価値を明らかにする助けとなり、更に、市民憲章の推進活動に携わる日本人の誇りと自信の拠り所となることを切に願います。
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