【日本の市民憲章について】

●はじめに 
●日本における「市民」 ●「憲章」(charter)の歴史 ●日本人好みの法規的表現 
●日本の「憲章」の起源と特徴  ●日本の市民憲章の制定状況  ●市民憲章の意義 
●市民憲章の言語表現  ●まちづくりと市民憲章  ●市町村合併と市民憲章 


●はじめに
 現在、我が国の約700の都市の内の9割近くに「市民憲章」(citizen charter)が制定されています。
 これまで日本ではあまり大きな話題になることもなく、ただの飾り物で「お鏡餅の上の蜜柑」のようなものだなどと言われてきた市民憲章ですが、数年前から主として次の7つの事情により、急速に注目を集めつつあります。
  (1).イギリスの市民憲章(1991)にならって行政サービスの見直しが進められつつある。
  (2).地方分権の流れに沿って地方自治条例が具体的に検討されつつある。
  (3).まちづくりへの市民参加意欲を喚起するツールとして利用されつつある。
  (4).声に出して読む美しい日本語の例として市民憲章の文章が見直されている。
  (5).地域における生涯学習や初等教育のテキストとして利用されつつある。
  (6).日本人の国民性に合った法規表現を根本的に検証する材料として注目されつつある。
  (7).市町村合併の際の協議事項の一つとして検討の必要に迫られている。
 このように、市民憲章は一人一人の日本人が21世紀の日本の社会を考える上で大きな意味を持つものであることが分かります。
 特に、グローバル化が進む世界の中で日本が自らの文化的拠り所を確認することは不可欠な努力ですが、そのような場合に市民憲章は多くのヒントを与えてくれるものと思われます。
 なお、市民憲章に関する出版物は極めて少なく、現在のところ『日本の市民憲章』[三輪真之著、詩歌文学刊行会(03-3814-9591)、2002.6、税込2,100円]以外にありません。市民憲章に関する基礎知識がまとめられておりますし、巻末には参考資料として日本の全ての市民憲章(2002.3.15現在)が収録されておりますので、是非御一読下さい。

●日本における「市民」
 ヨーロッパは主要な国家の大半が陸続きであるが故に、古くから異民族間で大規模な抗争が繰り返されてきました。
 このような土壌で「市民」による自衛と自治を前提要件とした「都市」が数多く成立することは極めて自然なことですが、島国で大河や広大な平野を持たない日本では、小規模な抗争や国内の覇権をめぐる合戦はあったものの、城壁の内部に住む多人数の独立集団が互いに宗教的結束を基に激しく争ったという歴史的事実は存在しません。それに近い状況があったとしてもせいぜい十三世紀以降のことですから、我が国においては「都市」という概念も「市民」という概念も確かな歴史を持たないと言っても過言ではありません。
 実際、「みやこ」(都)・「いち」(市)・「まち」(町)などという和語はあっても「都市」にあたる適切な和語はありませんし、「市民」という言葉も大多数の日本人にとっては「市の住民」という意味しか持ちません。
 すなわち、日本の社会においては、自衛と自治を前提要件とした「市民意識」などというものは定着もしていないし、目標とすべきものかどうかも疑わしいと思われます。
 従って、我々日本人が「市民」という言葉を用いる場合は、西欧的な「都市」の成立過程を踏まえ、日本の歴史や国民性との相違を弁えた十分な注意が必要です。特に、「市民」に関する議論においては、ヨーロッパで長い歴史を持ち特定の意味を含む「シチズン(citizen)」の訳語としての「市民」を一般的な意味における日本語としての「市民」とすり替え、自衛と自治が市民の無条件の義務であるかような詭弁的主張は明確に否定しなければなりません。
 ところで、日本における「市民」の実体は、例えば、サラリーマンであり、商工業者であり、農民であり、老人であり、主婦であり、学生であって、特定の意識を含む人間集団の規定ではありません。寧ろ「行政体としての市に帰属している人間」(区に帰属していれば区民、町に帰属していれば町民、村に帰属していれば村民)といった無色透明な定義として受け入れられている面が強く、実質的な意味は「庶民」あるいは「大衆」といった概念と大差がありません。
 このような意味における「市民」は、少なくとも「市民運動」という言葉に含まれる「市民」とは明確な一線が画されるべきであり、安易に多用されるべきではないと考えられます。

●「憲章」(charter)の歴史
 どのような内容の事柄が「憲章」(charter)の形で示されるかは国によっても時代によっても異なりますが、例えば、イギリスを中心とする西欧社会においては、市民社会を前提とした諸々の約束事が「憲章」という形式で示されてきました。
 その起源とも言い得るものはイギリスの「大憲章」(マグナ・カルタ、Magna Carta, 1215)ですが、これはジョン王と人民としての貴族との権利的契約内容を明確化するために定められた文書です。
 この後、「憲章」という名称の付された著名な歴史的文書としては、例えば、チャーチスト運動の際提出された請願である「人民憲章」[英](People's Charter, 1837)、イギリス連邦の成立を法制化した「ウェストミンスター憲章」[英](1931,Westminster Charter)、チャーチルとルーズベルトの共同宣言である「大西洋憲章」(Atlantic Charter, 1941)、国際連合設立の規準を定めた「国際連合憲章」(Charter of the United Nations, 1945)などがあります。これら以外の注目すべき「憲章」としては、例えば、「児童教育憲章」(幼児教育章程)[清](1904)、「国際労働憲章」(1919)、「世界子ども憲章」[英](1929)、「国際労働機関憲章」(1946)、「国際連合人権憲章」(1966)、「人権と自由の憲章」[カナダ](1975)、「世界自然憲章」[国連総会](1982)、「納税者憲章」[英](1986)、「納税者憲章」[仏](1987)、「市民憲章」[英](1991)、「納税者権利憲章」[韓国](1997)などがあり、特定の立場や内容をアピールするものとしては、「アテネ憲章」(1933)、「オリンピック憲章」(1925)、「(障害者の)80年代憲章」(1980)といったものがあります。

●日本人好みの法規的表現
 よく知られているように、現在の日本の法制度の大半は、明治以降ドイツやフランスの法制度を受容し模範とすることによって成立したものですが、日本の社会には、明治以前は言うまでもなく、律令制度を中心とした中国の法制度が入ってくる以前も法制度は存在していましたし、また、文献資料が無い時代にもある種の法制度が存在したであろうことは容易に想像がつきます。特に、日本人の法規的表現に関わる嗜好性を確認する上においては、寧ろ、律令制度が定着する前の数千年の歴史の方が重い意味を持つとさえ思われます。
 さて、古代の日本ですが、善悪の基準は神意に適うか否かであり、神事と裁判は不可分な面を持っていました。
 例えば、「くがたち」(盟神探湯)という神誓裁判があったことがよく知られています。
 しかし、これと同様の裁判の方法が「湯起請」(ゆぎしょう)と呼ばれて中世以降も行われたことや、熱湯を用いる「湯立神事」(ゆたてしんじ)が現在も各地で行われていることはあまり知られていません。
 続いて、三〜四世紀になると、「のり」という形で族長(司祭者・執政者)が神意を伝達することになりますが、これが日本の社会で如何に重い意味を持ってきたかは、「のり」という訓を持ち法律や倫理に関連した意味を持つ漢字が、例えば、規・則・法・律・憲・典・範・令・矩・徳・教・紀・刑・式・倫・義・度・統などと非常に多いことからも察することができます。  また、「のり」という和語は、「いのり」(祈り)・「のりと」(祝詞)・「みことのり」(詔)などの語根になっています。
 特に、「みことのり」(詔)は、例えば、七〜八世紀に「大化改新の詔」(646)、「国分寺・国分尼寺創建の詔」(741)、「大仏造立発願の詔」(743)などが出されていますが、これらは単に天皇の言葉という意味に止まらず、天皇が神意を代弁して人民に伝達するという意味があったものと推察されます。
 次に、七世紀の初め聖徳太子によって制定された「十七条の憲法」(604)ですが、有名な「一に曰く、和を以て貴しとなし、・・・・」で始まるこの憲法は、我が国最古の成文法であるばかりでなく、博覧強記の天才が儒教・仏教・法家の思想をまとめて僅か十七条に凝縮したという点においても、農耕民族の日本人の最高価値が「和」であることを看破してそれを最初に明示したという点においても、今なお驚嘆すべき内容を持つものであると言わざるを得ません。
 この後、隋・唐の制度にならって規定された「律令」が「飛鳥浄御原律令」(682)、「大宝律令」(701)、「養老律令」(718)などとして整備されましたが、刑法に当たる「律」や行政法・民法等に当たる「令」(リョウ)以外に、広義の法規である「令」(レイ)は、現代に至るまで数多く出されてきました。
 これらの他、重要なものとしては、十三世紀と十四世紀に武家の慣習法が成文化された「式目」、十五世紀後半から十六世紀前半にかけて戦国大名によって定められた「分国法」[戦国家法]、十七世紀以降江戸幕府により政治や社会生活上の要諦を簡明に規定するものとして出された各種の「法度」(はっと)・「御触書」(おふれがき)・「御定書」(おさだめがき)などがあります。
 また、室町時代以降、領主による法令や通達は「掟書」(おきてがき)と呼ばれ、しばしば「高札」(こうさつ)によって庶民に周知徹底されました。
 以上が十九世紀半ば過ぎまでの概況ですが、これらの流れから、日本の社会では僅か百数十年前まで「律」・「令」・「格」・「式」などの古代中国の制度や「憲法」・「法律」・「施行令」・「条例」などの西欧の法制度とは全く異質の、「のり」や「おきて」といった簡潔な法規的表現が長い間大きな役割を果たしてきたことがはっきりします。

●日本の「憲章」の起源と特徴
 日本における「憲章」の起源は、慶応四年(明治元年、1868)三月十四日に公布された「五箇条の御誓文」(charter oath)であると考えられます。これは「憲章」という名称こそ付いていませんが、国政の目標が簡潔かつ肯定的に述べられているという点において、「憲章」と見なすべき形式と内容を備えています。
 因みに、日本の市民憲章は圧倒的に多くのものの主文が五箇条から成っていますが、この事実は、それらが「五箇条の御誓文」を意識したものであることを示唆しています。
 しかし、日本においては「憲章」という漢語自体に馴染みが薄く、明治以降、思想的な信条や実践的な目標が「憲章」という形式で示される伝統は長い間定着しませんでした。
 広く知られている最初の「憲章」は、日本国憲法の精神に基づいて昭和二十六年五月五日に定められ、十二箇条から成る「児童憲章」であると思われます。
 この昭和二十六年(1951)という年は、我が国で最も古い広島市の「市民憲章」(市民道徳)の制定時期である昭和二十五年ともほぼ符合し、日本における「憲章」の起源を考える上で非常に重要な年です。
 一方、欧米の憲章(charter)と日本の憲章とは内容や制定意図がかなり異なります。
 すなわち、欧米の憲章は、為政者と市民、あるいは権限の保有者と被適用者の間の契約内容を明確かつ厳格に示すことに主眼が置かれ、現実的効力が予定されているのに対し、日本の憲章は、共同体の構成員相互の連帯感や共感を醸成することに主眼が置かれ、願望的状況が誓約されています。
 従って、日本の憲章には分かりやすい日本語で簡潔に書かれたものが多く、法的な規制力を意識して詳細かつ体系的に書かれたものはありません。日本には、このような憲章が市民憲章以外にも数多く制定されています。

●日本の市民憲章の制定状況
 日本の市民憲章は、少なくとも欧米の「市民憲章」・「都市憲章」・「自治憲章」などの憲章(charter)を翻案して導入したものではなく、例えば「のり」や「おきて」の伝統を受け継いだ、日本独自の憲章の典型的な事例であると考えられます。
 このような意味における市民憲章は、第二次世界大戦の後、多くの市区町村や県で「市民憲章」・「区民憲章」・「町民憲章」・「村民憲章」・「県民憲章」という呼称で制定されてきました。
 平成14年(2002)1月15日現在、日本の47都道府県には695の都市(672の市と23の東京特別区)があり、それらの内615の都市(609の市と6の東京特別区)に「市民憲章」・「区民憲章」が制定されています。
 従って、日本の市民憲章は、都市の行政目標を示す公的な文書としては、日本で最も広く定着し既に形態として確立していると見ることができます。
 日本の市民憲章が、比較的短期間に広く普及した要因としては、例えば、民主主義的な手続きや政治手法の希求、自由主義を基にした地域経済や生活の向上、公害問題に端を発した住民運動の拡大、革新政治による市民意識の高揚、保守的立場に基づく地域愛などが考えられますが、何れも単一の因果関係が特定できるような単純なものではなく、「時代の雰囲気がそうさせた」としか言いようのない複雑な面を持っています。
 なお、市民憲章の制定されていない都市は全国で80ありますが、県庁所在都市は46市のうち13市(盛岡市・仙台市・富山市・横浜市・さいたま市・千葉市・静岡市・名古屋市・大阪市・神戸市・松山市・長崎市・宮崎市)が、東京23区は17区(千代田区・中央区・港区・文京区・台東区・墨田区・江東区・大田区・世田谷区・中野区・杉並区・豊島区・北区・荒川区・練馬区・葛飾区・江戸川区)が未制定であり、何れも高い割合であることが注目されます。

●市民憲章の意義
  各都市で市民憲章が制定される目的は、殆どの場合、「まちの理想像を掲げて空間環境的な達成目標を示す」ことと「個々人の生活を快いものにするための社会生活的な努力目標を示す」ことにあると考えられます。
 例えば、「明るいまち」・「美しいまち」・「住みやすいまち」・「みどり豊かなまち」などという表現で理想とする都市像が述べられ、「助け合い」・「思いやり」・「きまりを守る」・「文化の香り」などという表現で生活の規範や方向が述べられています。
 このような目的を具体的に達成するため、多くの都市では、市民憲章を市の基本構想や総合計画などの理念的前提とするばかりでなく、自治会活動などを通した恒常的な普及活動・啓蒙活動・学習活動等の拠り所にしています。
 近年、地域行政の分野においては施策実施の前提として市民の「合意形成」が重視され、それを得る方法として、例えば「市民参加」(citizen participation)・「パブリック・インボルブメント」(public involvement、市民参画)・「パブリック・コミュニケーション」(public communication、公共情報交流)などといった考え方が示されていますが、市民憲章は、多くの市民に「都市に関わるすべての計画は本来市民の総意に基づいた理念から出発すべきである」そして「望ましいまちをつくるためには環境や施設を整えるだけでなくそこに住む人々が日常的に努力を積み重ねなければならない」といった行政哲学とでも言うべきものを無理なく自覚させているという点において、それらの考え方を根底で支えていると言えます。
 一方、日本の市民憲章には、「市民」のまちに対する愛情を醸成し「まちづくり」への参加意欲を喚起するという大きな意義があります。何故ならば、現在の日本は高等教育への進学率が50%を超えるというかつて無い高学歴社会であり、多くの日本人にとって知的権威が急激に説得力や影響力を失いつつあるからです。
 このような社会状況の中で自分の住むまちへの愛情が芽生え「まちづくり」への関心や意欲が湧くとしたら、それは、強制や義務や利害ではなく、例えば、「繰り返し声に出す」・「心を込めて祈る」・「美しいものを思い描く」・「親しい人と共に作業する」などといった理屈を超えた行為が契機になります。
 従って、小中学生でも理解できる程度の知的水準で書かれ、音読した時心地よく耳に入ってくるという市民憲章は、多くの「市民」の参加意欲を潜在的に決定付ける力を持っていると考えられます。

●市民憲章の言語表現
 日本の市民憲章は、和語を多用した親しみやすく温かい日本語で簡潔に書かれているため、音読に耐えかつ暗誦の容易なものが大半ですが、これは「言葉を発して誓う」という古来の誓約や祈願の作法に則ったものです。
 このように、日本の市民憲章は唱和されるに適した言語表現がなされていますから、成人式や祝賀式などの公式行事の場において市民憲章を唱和する市が少なくありません。唱和を半ば強制的に求めるかどうかは別として、最近の一般的な日本人は「いのり」の形を持っていないだけに、「一緒に声に出して言う」ことの意義は大きいと考えられます。
 ところで、口語文の親しみ易さを検証する際の有力な尺度として「和語率」(主要な語彙に占める和語の割合)が考えられますが、『現代雑誌九十種の用字用語・その2』[国立国語研究所](1964)によれば、語種の大体の構成は、「延べ語数」で和語54%、漢語41%、外来語3%、混種語2%、「異なり語数」で和語37%、漢語48%、外来語10%、混種語6%ですから、一般の文章の「和語率」は「延べ語数」で約55%「異なり語数」で約40%と推定されます。
 これに対して例えば東京都の全市民憲章(市民憲章22・区民憲章6・町民憲章3・村民憲章1)について調べてみると、市民憲章の「和語率」は「延べ語数」で72%「異なり語数」で58%になっていますから、市民憲章に用いられている和語は一般の文章より3割近く多いことがわかり、市民憲章の親しみやすさが国語学的にも検証されます。

●まちづくりと市民憲章
 日本の市民憲章は「まちづくりのための行動目標」を示したものであるというのが一般的了解です。
 例えば、市民憲章の意義について、秋田市は市議会の用語解説の中で「伸びゆく秋田市の市民であることに誇りと責任を持ち、明るく、豊かな町をつくるために、市民ひとりひとりが実践すべき目標を定めたもの」としています。
 言うまでもなく「まちづくり」とは、「よいまち」を「つくる」ことですが、そこには注意すべき重要な点が二つあります。
 第一は、建築家や都市計画家から見た「よいまち」というのは形態概念であり、理想像に近い形で実現されたものが「よいまち」になるのに対し、市民から見た「よいまち」というのは状況概念であり、「まち」は日々よいか悪いかの判断対象になるということです。
 従って、建築家や都市計画家は、計画が完成し一旦「よいまち」になったものについては容易なことではその価値判断が変わらないのに対し、市民は、劣悪な環境であっても「住めば都」といった肯定的な価値判断のなされることもあれば、一日ゴミが回収されなかっただけで嫌なまちになってしまうこともあるということになります。
 第二は、「つくる」という和語が、「新しいものや新しい状況等を出現させる」という意味と「努力によってある状態を実現する」という二つの意味を持つということです。前者については、主体が誰であれ必要な費用や労力が確保されれば目標が達成されたと感じ得る時を迎えることができますが、後者については、当事者としての市民が自らある程度の犠牲を半永久的に払い続けない限り目標は達成されません。
 これらのことから、「よいまち」を「つくる」という目標は、最終的には全市民による継続的な努力によって達成されるのであり、一部の人間の一時期の努力によって達成されるような性格のものではないということが了解されますが、日本の市民憲章は、このような意味における「まちづくり」の本質を分かり易く示しています。

●市町村合併と市民憲章
 地方分権の潮流の中で「広域行政」が叫ばれ、ここ数年各地で市町村合併の話題が多くなっています。
 そして、合併を前提とした当該市町村の協議会においては行政に関わる様々な事柄が実務レベルで「事前協議」されますが、市民憲章については、市章・市の歌・市の花などと共に「慣行」として扱われ新市が新たに検討するのが通例です。
 ここで非常に重要なことは、市民憲章の制定過程はそれ自体が「市民参加のまちづくり」のシミュレーションになるということです。
 例えば、兵庫県篠山市・鳥取県米子市・神奈川県横須賀市などのように最近市民憲章を制定した市では、市民憲章の制定趣旨や手続に関する情報をすべて市民に公開し、数次にわたる草案を市民に示して論議を重ね、更なる手直しをするという作業をじっくり繰り返し、十分な時間を掛けて制定していますが、このような作業は新市における「パブリック・コミュニケーション」や「パブリック・インボルブメント」としても、大きな意義を持つものです。
 今後各地に数多く誕生するであろう新しい市の希望に満ちた「まちづくり」活動の第一歩は、新しい市民憲章を市民と共に検討することによって踏み出されるのが望ましいと考えられます。

TOPページへ